「異端から大僧正へ」近鉄奈良駅の待ち合わせ場所 噴水に立つ「行基さん」とは?
奈良中心部における定番の待ち合わせ場所といえば、近鉄奈良駅そばの噴水。
ここには行基という人物の像が建てられています。
行基とは一体どのような人物なのでしょうか。
大仏造立にも深く関わった僧侶の波乱万丈の人生について、詳しく解説していきます。
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担当者:古川真史
【奈良に住んで20年】奈良を誰よりも愛し続ける奈良ヲタク。人気グルメから人口や歴史、鹿の生息数。何でも答えます。最近は大仏プリン推し。
奈良定番の待ち合わせ場所・行基広場と菩薩像
奈良の玄関口・近鉄奈良駅。
その東改札口を出て2番出口を上がったところに「行基広場」という場所があります。
奈良市街地における待ち合わせ場所として有名なこの広場には噴水があり、その中心に立っているのは一体の像――広場の名前の由来となっている行基菩薩像(ぎょうきぼさつぞう)です。
地元では「行基さん」と呼び親しまれています。
この行基菩薩像はもともと1970年に当時の市長・鍵田忠三郎氏によって建てられたもので、奈良の再開発を進めるにあたっての「街のシンボルに」という思いが込められているそうです。
ちなみに現在ある像は当時のオリジナルではなく3代目。雨風などで傷んだため、過去2度作り直されました。
はじめは伝統的な赤膚焼(あかはだやき)で作られていたのですが、現在のものは奈良にゆかりのある彫刻家が手がけたブロンズ製です。
奈良という街のシンボルとして、また、人々が集う待ち合わせ場所として、傷んでも作り直され愛されている行基菩薩像。
この元となった「行基」というのは一体どのような人物なのでしょうか。
異端とみなされた僧侶・行基
行基(ぎょうき/ぎょうぎ・668年~749年)は飛鳥時代~奈良時代のお坊さんで、仏教をひろめる活動のかたわらで社会福祉や土木開発に関する公共事業を積極的に行った人物です。
そして、奈良のみならず日本を代表する国宝・盧舎那仏坐像――いわゆる「奈良の大仏さん」の建立に携わった人物でもあります。
そんな行基の波乱万丈の生涯を見ていきましょう。
行基は今で言う大阪府堺市にあたる、和泉国大鳥郡で生まれました。
15歳で出家し「法行」と名乗るようになり、24歳の時に受戒。
飛鳥寺、次いで薬師寺(本薬師寺)と、奈良のお寺で教学を学び、名前を「行基」と改めます。
この頃の行基は月の半分をお寺での経典学習、もう半分を山林での修行にあてるという生活を、およそ14年にもわたって続けていたそうです。
ちなみにこのとき行基の師にあたる立場だったのが道昭(どうしょう)というお坊さんで、道昭は唐で玄奘三蔵(あの『西遊記』の三蔵法師のモデルといわれています)から教えを受けたことで有名です。
また道昭は、井戸を掘ったり橋を架けたりといった土木事業にも携わっており、これが後の行基の行動に影響を与えたのではないかという指摘もあります。
そののち行基は母親と暮らし、43歳のときに母と死別して3年間喪に服し、それを経て40代後半から民間への布教や社会事業に力を入れるようになります。
奈良時代において、仏教というものは国を護り治めるための手段で、個人の幸せのためのものではないというのが基本の方針でした。
まず国を護ることが個人の幸せに繋がると考えられていたのです。
そのため、僧侶はお寺にこもって国のために仏に祈るものと一般的に考えられていました。
一方で行基は積極的に寺院の外へ出て教えを説いて回ったり、貧しい人々に食べるものや泊まるところを提供できる場(布施屋)をつくったり、治水工事や架橋工事などの土木事業を行ったり、民衆を助けるための活動を精力的に行いました。
しかし、朝廷はこうした行基の活動を異端だとし、弾圧するようになります。
717年4月23日に朝廷から出された詔では「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と強い言葉で行基の行動を軽蔑し糾弾しています。
当時あった「僧尼令」という法令に反した怪しい活動をする存在だとみなされてしまったのです。
大仏造立の責任者 そして大僧正へ
それでも行基が朝廷からの弾圧に屈することはありませんでした。
福祉や土木などの社会事業を積極的に行い続けるなかで、やがて出家のみならず在家も巻き込んだ1,000余人あまりの大きな集団(行基集団)が形成されていきます。
行基集団では分業が確立され、「設計」「技術者の確保」「資材・労力の調達」などを各々の専門家がグループを作って担当するしくみとなっていました。
これにより、2年間で15もの寺院を建設するなど、驚くべき速さで事業が進められていきました。
行基の、そして行基集団の活動が民衆に広く支持されていくにつれ、朝廷はその勢いを抑えきれなくなっていきます。
ですが、行基が行う事業による社会インフラの発展などの功績は朝廷としても非常に利があるもので、「反朝廷的」な側面は見受けられませんでした。
結果、行基の活動はついに朝廷にも認められるようになりました。
そして行基は聖武天皇から直々に依頼を受け、743年に大仏造立の責任者に起用されます。
国から異端と見なされていた人物が、とうとう国家の一大プロジェクトを担うまでになったのでした。
大仏造立のための勘進(寄付)をつのるべく全国を回るさなかの745年、行基は78歳で僧侶としての最高位・大僧正に任命されることとなりました。
結局、行基は749年に亡くなり、東大寺で盛大な大仏開眼会が行われたのはその3年後・752年のことでした。
行基が大仏完成の場に居合わせることはかないませんでしたが、彼の筆頭弟子である景静(けいせい)が開眼会の司会者という大役をつとめました。
そして没後、行基は朝廷から菩薩の諡号を授けられました。
これは行基の功績がいかに大きかったかを世に伝えるものであり、こんにち、近鉄奈良駅の像が「行基菩薩像」と呼ばれるゆえんでもあります。
行基菩薩像が向いているのは東大寺の大仏殿の方向。
大仏造立に力を注いだ行基をしのんで、このように建てられました。
行基菩薩像はもう2体ある!?
ところでこの近鉄奈良駅の行基菩薩像。
1970年に初代がつくられた時、実は全部で3体作られていたという話はご存知でしょうか。
駅前に置かれた1体のほかに、壊れた時のスペアとしてもう2体が同じ型から作られていたのです。
ですがその2体は実際にスペアとして使われることはなく、奈良市の「霊山寺」と御所市の「九品寺」にそれぞれ1体ずつ置かれており、現在も大切にされています。
こうなった経緯も行基菩薩像を建てると決めた鍵田元市長によるもので、せっかくの像をもしもの時のスペアとして無駄にしたくないという考えから、親交があった行基ゆかりの寺に寄贈されたそうです。
元市長は行基についての研究グループの会長を務めるなど、行基に心酔した人物として知られていました。
霊山寺と九品寺に置かれている行基菩薩像も、駅前のものと同じく東大寺の方向を向いて立っているそうです。
寄贈されたいきさつといい、行基という人物が時を超えて尊敬されていることがよくわかりますね。
まとめ~定番の待ち合わせ場所も歴史への入口~
いかがでしたでしょうか。
今回は近鉄奈良駅にある行基菩薩像について、そしてその元となったお坊さん・行基の生涯について見ていきました。
定番の待ち合わせ場所ということで、地元では何気なく口にされている「行基」という名前ですが、少し詳しく見ていくと、非常に歴史の重み深みが感じられます。
そこかしこに歴史への入口がある。これも古都・奈良でこその魅力ですね。
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