「歴史をひも解く」大和郡山市が“金魚のまち”になったわけは?
奈良県大和郡山市は金魚の名産地として名高い土地です。
11月22日、大和郡山のやなぎまち商店街が、金魚ストリートとしてスタートしたよ
— 奈良信用金庫 公式【ならっきー】 (@naluckyofficial) November 24, 2020
いろんなお店に、いろんな種類の金魚がおよぐ水槽が展示されてるんだ✨
最後の写真は、ならしん本店営業部でお客さまをお出迎えする金魚だよ〜 pic.twitter.com/0HSJB1Gcyd
では、どうしてそのような「金魚のまち」になったのでしょうか。
金魚が日本に入ってきた歴史から大和郡山市に金魚が持ちこまれた歴史、養殖が行われるようになったいきさつなど、詳しく解説していきます。
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担当者:古川真史
【奈良に住んで20年】奈良を誰よりも愛し続ける奈良ヲタク。人気グルメから人口や歴史、鹿の生息数。何でも答えます。最近は大仏プリン推し。
日本と金魚の歴史
奈良盆地のほぼど真ん中に位置する大和郡山市。
ここはかつてあった郡山城の城下町として発展した地域で、「金魚のまち」として全国的に有名です。
あちこちで金魚の養殖がさかんに行われ、毎年夏には「全国金魚すくい選手権大会」という催しも開かれています。
一昨年に見に行った時の全国金魚すくい選手権大会(奈良予選)の様子。試合最初に自分が使用するポイを何種類かの中から選ぶ時間あって、そこがなかなかマニアックでした。光に透かしてみて、紙の目が詰まって少しでも強度があるのを選ぶと。 pic.twitter.com/8UXmTwJgNi
— とほん@木村いこ原画&木村セツ新聞ちぎり絵原画2人展 9/9-9/28 (@tohontohon) August 20, 2017
どういったいきさつで大和郡山市がそのようになったのか、まずは日本に金魚が入ってきた歴史から順を追って見ていきましょう。
金魚はフナの突然変異である「ヒブナ」が元となっています。
ヒブナはその名の通り緋色(赤色)をしたフナで、約1700年前に中国で発見されました。
そのヒブナをさらに人為的に掛け合わせて生み出されたのが金魚なのです。
美しい赤色をした金魚は、中国で観賞用の魚として広まっていくこととなりました。
そんな金魚が日本に来たのは室町時代。中国に明という王朝があった時代のことでした。
江戸時代に出版された『金魚養玩草』(きんぎょそだてぐさ)という本によると、文亀2年(1502年)に現在の大阪府堺市にあたる和泉国堺に持ちこまれたそうです。
ただしその当時は飼育の方法や養殖技術までは伝えられていなかったため、日本には定着しませんでした。
わが国で本格的に金魚がポピュラーな存在になったのは江戸時代中期ごろから。
先ほど名前を挙げた『金魚養玩草』が延享5年(1748年)に出版されたことが大きなきっかけになったと言われています。
こういった流れで、金魚はわが国でも観賞用の魚としてひろく愛されるようになっていきました。
大和郡山と金魚のかかわりは江戸時代から
さて、いっぽう大和郡山に金魚が持ちこまれたのも江戸時代中期。
『金魚養玩草』の出版よりも数十年先のことです。
享保9年(1724年)に柳沢吉里(やなぎさわよしさと)という大名が大和郡山の地に来ました。
柳沢吉里は甲斐(現在の山梨県)甲府藩の2代目藩主で、幕府の政策により大和国郡山藩の初代藩主となったのです。
そして、柳沢吉里の家臣に横田又兵衛という人物がいました。
この人物こそが大和郡山に金魚を持ちこんだ張本人と言われています。
柳沢吉里が郡山藩に入部した際に、横田又兵衛が「珊瑚樹魚」という観賞用の金魚を持ちこんだのをきっかけとして、大和郡山の地に金魚が伝わったということです。
明治以降 金魚の養殖がさかんになっていった
江戸時代中期に大和郡山に持ちこまれた金魚ですが、この地で養殖がさかんに行われるようになったのは明治時代に入ってからでした。
これには郡山藩最後の藩主となった柳沢保申(やなぎさわやすのぶ)という人物が大きく関わってきます。
明治維新以降、激しい時代の移り変わりにより仕事を失くした士族(武士階級だった人々)がたくさんいました。
そんな士族たちを救うため、柳沢保申が大和郡山の特産品として金魚の養殖・生産を推し進めていったのです。
柳沢保申は「柳沢養魚研究所」を設立して金魚の研究につとめ、新たな品種の改良にも積極的に着手していきました。
また、養殖した金魚の販路の拡大にも力を注ぎました。
また、大和郡山には農業用ため池がたくさんあり、金魚のえさとなるミジンコなどが発生しやすい環境であったことなども、金魚の養殖に適した好条件となったようです。
こうして大和郡山は金魚の養殖で有名になり、時が流れた今も「金魚のまち」として知られるまでになったのです。
まとめ~柳沢保申の残した功績~
いかがでしたでしょうか。
今回は大和郡山市と金魚の関わりについて見てきました。
「金魚のまち」大和郡山が誕生する大きなきっかけとなった柳沢保申は、金魚のほかにも、郡山紡績会社を創立させたり、現・奈良県立郡山高等学校に多額の金品と土地を提供したり、柳沢保申は郡山の産業や教育の発展にとても精力的な人物でした。
そうした地域の振興に熱心な姿勢と尽力があったからこそ、大和郡山に金魚の養殖が根づいていったのかもしれませんね。
ひも解くほどにおもしろい、歴史のお話でした。
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担当者:古川真史
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