【新紙幣に選ばれた渋沢栄一ゆかりの地】奈良との深い関わりとは?
新しい一万円札の肖像画に選ばれた渋沢栄一、実は奈良と関係が深い?

2024年に新しくなる日本の紙幣で、一万円札の肖像画に選ばれた渋沢栄一。
そんな渋沢栄一、実は奈良との関係が深い人だったのです。
なぜ肖像画に選ばれたのかピンとこない人も居るかもしれませんので、その人物像と奈良との関係をご紹介します。

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賃貸専門家:古川 真史
資 格:宅地建物取引士・賃貸不動産経営管理士
奈良在住25年以上。宅地建物取引士・賃貸経営管理士の資格保有。ルームアドバイザーとしてのキャリア18年以上の大ベテラン。不動産賃貸の関連はすべて媒介経験あり。奈良出身ではないのに奈良まほろばソムリエ検定(奈良通1級)取得する奈良への溺愛っぷり。奈良マニアの古川より独自な目線で賃貸情報を多数お届けします。
渋沢栄一とはどんな人物?

渋沢栄一は、天保11年、1840年の2月13日に武蔵国(現・埼玉県)の豪農の家に生まれます。
農民の出ながら武士に取り立てられ、その後幕臣となった渋沢は、パリ万博に将軍の名代として出席する徳川昭武の随員としてフランスへ渡航し、欧州諸国の実情を見分します。
その後、大政奉還に伴い帰国した渋沢は、明治政府では官僚を務め、大蔵省の一員として新しい国づくりのために、造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行いました。
大蔵省を辞職し実業界に転じ、日本で最初の銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所、日本赤十字社といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わりました。
渋沢が関わった企業は約500社にも及んだだけでなく、約600の教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交にも尽力しました。
それらの経緯から、「近代日本経済の父」や「日本資本主義の父」と称されます。
また、2024年から発行される新一万円札の肖像画に選ばれる以前から、渋沢は何度も肖像候補に選ばれています。
過去に日本銀行券C千円券(1963年発行)の肖像候補として最終選考まで残りましたが、当時は偽造防止のために髭をたくわえた人物の肖像画を使うことが決まっていたため、髭の無い渋沢では難しいということで採用されませんでした。(この時は伊藤博文の肖像が採用されました)
その後、印刷や偽造防止技術の向上により髭の有無に関係なく肖像画使えるようになり、2024年の紙幣改定で渋沢の肖像が採用されることになりました。
そんな渋沢栄一は生涯の大半を関東圏で過ごしているのですが、遠く離れたこの奈良にもゆかりのある人物だったのです。
渋沢栄一と奈良の意外な関係① 法隆寺

2021年、聖徳太子没後1400年という節目に、奈良県では歴史的催事を活用した奈良県観光キャンペーンが行われました。
実は、100年前の1921年にも「聖徳太子千三百年御遠忌法要」が行われ、それに渋沢栄一が大きく携わっています。
法要の3年前、1918年(大正7年)に渋沢は奉賛会を作り、現在の天皇陛下の曽祖父にあたる久邇宮邦彦(くにのみやくによし)を総裁に、紀州徳川家第15代当主である徳川頼倫を会長にたて、渋沢自身は副会長に就きました。
法要には多額の費用が必要でしたが、当時の法隆寺は上知令によって領地を没収されており、明治初期の廃仏毀釈の影響によって、寺を維持するだけでも苦労をしている状態でした。
法隆寺は檀家を持たない寺であったために法要を行うには自らの財力で行う必要がありましたが、とても盛大な法要を行うことなどできない財政状態であったのは言うまでもありません。
さらに、法隆寺だけでなく太子の墓がある叡福寺(大阪府太子町)の法要なども含め、予算は計45万円(現在の価値にして12億円以上)と高額で、財政支援が必要になるとされていました。
そこで渋沢が立ち上がり、多額の予算を寄付で集めるために奔走し、当時の新聞にも「聖徳太子讃歌懸賞募集」の広告も掲載されるなど、国を挙げての大きな事業となりました。
その結果、法隆寺での法要は4月11~17日の7日間で行われ、予定額の倍以上の寄付金があつまり、約26万人もの参拝者が訪れる大成功の事業となりました。
新聞には「法隆寺詣」が掲載されたり、早朝に名古屋を出発する汽車が瞬く間に満員になったことなど、大変な人手があったことが記録されています。
皇室の人物である聖徳太子が外国の文化を取り入れつつ天皇中心の政治を打ち立てた様子と、明治になって欧州文化の影響を受けつつ急速に進歩する天皇中心の国づくりが進んでいたことが民衆には重なって見えていたことで、「信仰の対象としての太子から、歴史上の偉大な指導者として評価されるようになった」と考えられています。
また、この法要後は法隆寺も1300年遠忌の機運に乗り、寺を興隆させていきます。
1934年(昭和9年)には当時の文部省が法隆寺を国として守っていく「法隆寺国宝保存事業部」を設けたことで、貴重な文化財を守ることができるようになりました。
もちろん法隆寺だけでなく、この後に多くの文化財が守られるきっかけを作ったのは、まさに渋沢栄一だったと言えるでしょう。
渋沢栄一ゆかりの地① 法隆寺
奈良の観光スポットでは外すことができない重要な社寺のひとつ法隆寺は、現存する世界最古の木造建築群としても有名です。
国宝や重要文化財が55棟もあり、まさに聖徳太子が生きた時代を感じることが出来る唯一の場所となっています。
1993年(平成5年)には世界文化遺産にも登録され、国内外を問わず多くの観光客が訪れます。
渋沢栄一と奈良の意外な関係② 平城宮跡

2021年放送のNHK大河ドラマ「青天を衝け」でも登場したので多くの方が渋沢の功績を知ることとなります。
渋沢は法隆寺の奉賛会とほぼ同時期に、旧都である平城宮跡の保存整備を目的に設立された「奈良大極殿址保存会」の評議員の任にも就いています。
当時の平城京跡は、平安京への遷都後に荒廃が進み、明治の初期には田畑となっており、かつての都だったとは到底分からないようなほどに原型をとどめてはいませんでした。
文化財保存運動家であり植木職人として奈良公園などの植栽を手がけていた棚田嘉十郎が、田畑に埋もれている平城京大極殿を発見、保存を呼びかけます。
そこで、1913年(大正2年)2月に同会を設立し、徳川頼倫・岡部長職・阪谷芳郎・岩崎久弥・三井八郎右衛門らとともに、奈良市郊外の朝堂院阯に標石28基、大極殿阯と内裏阯に記念碑を建立してこれらを保存しようという同会の発起人に名を連ねました。
渋沢は評議員にも就き、金500円(現在の価値で140万円程度)を寄付したと記録されています。
保存会は礎石や碑を設置、さらに跡地を購入することでその保存に努めました。
1922年、国が史跡に指定するなどしたことを機に、事業完成として同会は役目を終えて解散します。
その後、平城宮跡は1952年(昭和27年)に国の特別史跡となり、第一次大極殿や朱雀門が復原され、1998年(平成9年)には世界遺産「古都奈良の文化財」を構成するものとして登録されました。
現在の復元されつつある平城宮跡の姿は、まさに渋沢栄一の活躍が無ければ見ることが叶わなかった光景と言えるでしょう。
渋沢栄一ゆかりの地② 平城宮跡
2010年、平城遷都1300年祭の記念事業として復元された朱雀門を含め、多くの復元施設が点在する平城宮跡は、今もなお奈良の観光スポットとして大きな変化を続けています。
2018年には平城宮の変遷を総合的に案内してくれる「平城宮いざない館」や観光拠点施設「天平みはらし館」など、5つの複合施設がある「朱雀門ひろば」がオープンし、「平城宮跡歴史公園」となりました。
その他にも、「平城宮跡資料館」、「遺構展示館」、「復原事業情報館」では、多数の出土品の展示、復元模型、遺構などが公開されており、渋沢が尽力したことで遺された歴史遺産を見ることができます。
渋沢栄一と奈良の意外な関係③ 第六十八国立銀行

渋沢は多くの企業の設立・経営に関わりましたが、その中のひとつに「第六十八国立銀行」があります。
そんな名前は聞いたことが無い、という人も多いかもしれませんが、現在は奈良県の銀行として有名な「南都銀行」の前身です。
1878年、奈良の士族である旧郡山藩主・柳沢保申らが渋沢の指導の下、第六十八国立銀行を設立します。
1897年には国立銀行営業満期前特別処分法により私立銀行「㈱六十八銀行」となり、渋沢没後の1934年には㈱御所銀行、㈱吉野銀行、八木銀行などと合併し、現在の㈱南都銀行となります。
第六十八国立銀行設立時、当時の本店は大和郡山市にありましたが、奈良支店として建てられた建物が現在の南都銀行本店として残されています。
1926年の建設当時から実質的には本店機能を有しており、1928年には本店を移転しています。
渋沢栄一ゆかりの地③ 南都銀行本店
奈良観光では外せない繁華街、三条通りと東向商店街の結節点にあり、興福寺や猿沢池といった観光スポットからも近いことから、多くの観光客が行き交います。
三条通り側の正面には羊の彫刻が施されたイオニア式の列柱4本が並ぶ壮麗な外観で、当時は奈良県内で唯一のギリシア式建築が取り入れられました建物は、1998年には国の登録有形文化財に指定されています。
銀行に必要な堅牢性と共に耐震構造を取り入れられた設計は、関東大震災の直後であったこともあり震災を教訓にした設計の見直しを行ったものの、防火設備を多少追加する程度で済むほど十分な設計が施されていたといいます。
数回の改装を施されていますが、今もなお竣工時と殆ど変わらない外観を残す建物は一見の価値があります。
渋沢栄一と奈良の意外な関係④ 吉野神宮

吉野神宮は、桜で有名な吉野山に、1892年(明治25年)に明治天皇が後醍醐天皇を祀る官幣中社・吉野宮として創建されました。
1918年に橿原神宮・明治神宮に準じる神宮とされ吉野神宮に改称されましたが、当時の社殿は規模が小さいだけでなく荒廃が進んでおり、国家の崇敬社格にはふさわしくないとして、国費50万円を投じて社殿などを造営することを目的に「吉野神宮奉賛会」が発足しました。
渋沢は1924年(大正13年)にこの奉賛会にも顧問として就任、寄付金募集に尽力します。
1923年から1932年にかけて再整備がなされ、本殿や拝殿など多数の建物が一新されて現在に至ります。
就任当時の渋沢は84歳と高齢で、再整備が終わる年にはすでに他界していましたが、渋沢の尽力がなければここまでの復興は無かったでしょう。
渋沢栄一ゆかりの地④ 吉野神宮
桜の名所と名高い吉野山の入り口にあり、境内も桜の名所として多くの観光客が訪れます。
再整備によって総檜造となった本殿・拝殿・神門は近代神社建築の代表とされ、後醍醐天皇が京都の御所への帰還を熱望していた心情を汲んで、京都の方角である北向きに建てられています。
同じ吉野山にある金峯山寺や吉水神社のように世界遺産には登録されていませんが、吉野山に訪れたら外せない観光スポットです。
渋沢栄一ゆかりの地を巡りましょう

奈良県内にある渋沢ゆかりの地は4か所、いずれも奈良観光では定番のスポットです。
お札の肖像に選ばれたことや大河ドラマを見たことで興味を持った方も多く、すでに大勢の観光客が各地に訪れています。
修学旅行の奈良観光として渋沢ゆかりの地を巡る学生も増加しており、奈良観光=鹿や大仏といった定番コースだけでなく今ホットな観光スポットとして人気が出てきているようです。
ゆっくりと時の流れる奈良で、渋沢栄一の功績を巡る旅はいかがでしょうか。
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